日々、読書記

日々の読書記録です

「君たちはどう生きるか」

ジブリ映画の「君たちはどう生きるか」を観た。同名の小説を映画化したものだと思っていたら、ほぼ関係なくて驚いた。死後の世界を連想させる空想みたいな場所で、インコ人間の大群と戦ったり、世界の成り立ちを解き明かしたりする。メッセージが強そうでいて、いろいろな解釈もたぶんできる。僕なりの解釈(ネタばれ)を書くけれど、たぶん人によってぜんぜん違う。

 

≪あらすじ(のような解釈)≫

主人公の母方の祖先は、明治維新のときに空から落ちてきた隕石の宇宙的意志により、別世界に属しながら世界の秩序を維持している。その方法は、メタファーそのままの積み木であり、祖先は年を取って自分の血筋の跡取りを欲している。

 

その血筋から、主人公の母親、母親の妹、主人公は、祖先のいる世界に引き寄せられる。秩序とは、明治維新のときに空から降りてきた意志であり(王政復古のメタファー)、戦争での敗戦に向けて揺らいでいっている(国体の崩壊のメタファー)。

 

秩序を維持する祖先は典型的な上流階級に見える。西洋風の見なりや生活習慣を持っている。対するインコ人間は、庶民そのもので、感情や欲望に流されやすいが、感動屋であり仲間内の連帯意識も強い。

 

インコ人間の首領(インコ大王)は戦前の陸軍の象徴のようにも見える。実際の軍部の暴走が、政党や財閥などの上流階級への反発で、庶民の支持を得ながら生み出されたことに重なる。彼らは塔のなかで増えすぎてパンパンになっていて、生存圏の拡張を求めている。宇宙の意志についても、その解釈者とされる祖先を尊重しているように見えつつ、必ずしも従順なだけではない。

 

主人公は老いた祖先から秩序の維持を引き継ぐことを求められる。宇宙の石の意志(ダジャレみたいな)に基づく秩序。しかし主人公は自らの悪意を含めた、世界そのものを受け入れることを決意し、偽善的な秩序を維持することを断る。

 

インコ大王はレジームの変化を示唆されたことに怒り(戦前も天皇の暗殺の可能性すらあったとされる)、自らが秩序を作ろうとしてたわいなく積み木に失敗し、むしろ世界を崩壊させる(国体を崩壊させる陸軍)。

 

主人公は、裏の秩序を失った世界に帰る。塔の崩壊。二年後、戦争は終わり、新しい生活が始まる。

 

≪あらすじここまで≫

 

のように観えた。ぜんぜん違うのかも知れない。秩序の側の主人公や祖先が属する世界は西洋風で落ち着きがあり、一方で少し近寄りがたい。庶民側のインコ人間はわちゃわちゃしていて明らかに知性に欠けるけれど、人間味はあり親しみは持てる。その橋渡しをする、両方に属する人たち(サギとかもいるけど)。イメージの横溢。

 

僕たちは戦後に生まれている。戦前の神国思想みたいな異様な思想からは自由に生きている。それでいて、戦前には実態はとにかく存在したらしい「国体」のような、連帯を作り出す根本的な思想を失ったまま生きている、とも言える。それがいいことなのかどうかは実は難しい。個人の高い倫理観の集合を思想として、社会の連帯を築き上げていくのはなお難しいだろう。

 

がんばれと言ってくれているのかもしれない。あるいは何度も観れば見え方も変わっていくのかも知れない。よくこんなものを作るものだと思う。そんな固いことは抜きにしても、インコ人間はおかしいし、別世界は桃源的で綺麗だと思う。なんとなくでもまた観てみたい。

「問題はロシアより、むしろアメリカだ」 エマニュエル・トッド

 

エマニュエル・トッドは日本で人気がある(世界ではどうか知らない)。本業は人類学者で、人口構成や家族構造などで世界情勢を読み取っていく。本人は、日本では特にウケるなどとよく言っている。新書の本などは本屋で平積みになっている。表現が平易でわかりやすいし、断定しない物の見方が受け入れられやすいのだろう。

 

本書はウクライナ戦争について、池上彰がトッドにインタビューをしたものを書き起こしている。この類の本(インタビュー本)は作りやすいのだろう。読み手にも、お手軽な雰囲気は漂うものの、分かりやすさや最新の情報を得られることはメリットだと思う。

 

話されるのは基本的にトッドの今までの主張のとおりだけど、本書では前提になっていて前提知識の説明はあまりない。前著の「第三次世界大戦はもう始まっている」を読むとわかりやすいと思う。だいたい以下のような内容だった。

 

・戦争のそもそもの原因は、冷戦終結以降のNATOの東方拡大にある

・冷戦終結時に、統一ドイツのNATO加入はアメリカとロシアで同意された

・一方で、ほかの旧東側諸国には拡大させないという方針が取られた

(少なくとも、ロシアは、それが西側と共有されたと思っていた)

・実際はアメリカの一極支配のもと、旧東側の諸国もNATOに加入していった

旧ソ連領のウクライナまでがアメリカによる軍事支援を通して、実質的にNATO入りしつつあった

・隣国まで敵対勢力に入るという、その焦りがロシアの侵攻の原因になった

 

さらに、本書では、西側の自由主義や民主主義の理想は、父権主義の強い多くの国では、むしろ欧米からの価値観の押し付けと見られている、とされる。家族観や地域社会の成り立ちを破壊しかねないものと受け取られているらしい。

 

価値については多元的な(国内での抑圧さえ認める)ロシアのほうが、世界では理解を得られすい。もはや「西側」対「権威主義国家」の構図ではなく、「西側」対「世界」の構図になってしまっている。

 

アメリカが、自分たちの理想(自由や平和)を、戦争を起こしてでも押し付けようとしてきたのは事実だと思う。行き過ぎた自由主義が、絶対的な市場主義を招いて、地域社会などを破壊してきたのもそのとおりな気はする。

 

けれど、「現に一方的な侵略を受けているウクライナに、NATOは軍事支援を止めることができるのか」という問いには、答えが出ていないように見えた。質問をはぐらかしてはいなかっただろうか。

 

平和が一番だと思う。アメリカには、世界が平和になったら、多少でも内省してほしい。それがもっとも難しそうなことではあるけれど。

「推し、燃ゆ」 宇佐美 りん

 

アイドルファンの気持ちがわからない。なぜならアイドルファンだったことがないから。それを言ったら、炭鉱夫の気持ちも、郵便配達員の気持ちもわからないのかもしれないけれど、アイドルファンは仕事ではなく、生活の余暇の部分で行うもので、やるもやらないも好き好きだから、より一層わからない度合が高い気がする。

 

この小説の主人公は熱心なアイドルファンをしている。アイドルを追いかけることが生活の中心になっている。一般にアイドルのファンと言うのは、恋愛を投影しているものかと思っていたけど、主人公にとってのアイドル(「推し」)はそういう存在ではないらしい。

 

むしろ、主人公が日常生活に適応できない、その代償を求めているみたいに見える。「推し」のアイドル自身も、華やかな芸能界に適応しきれていないように見える(そう感じること自体も主人公が自身を投影している感じもする)。それでも頑張る姿を「愛おしい」などと言う。

 

ある日、「推し」がファンを殴ってしまい、SNSを中心に大炎上する。芸能人にとって致命的な出来事だろう。主人公はそれでも「推し」を応援し続ける。むしろ、どんどんのめり込んでいく。そして、「推し」が芸能界からはじかれていくように、自身の家族、学校、バイト先との不協和も増していく。

 

主人公にとって、「推し」は生きていくための中心だから、その「推し」がファンを殴ったり、引退を決めたりするときには、主人公自身の魂がゆらぐことになる。

 

本来、主人公の年頃(高校生)に、個人は社会に向き合い、リアルな世界にそれぞれの立ち位置を定める必要があるのだろう。しかし、肝心の大人が、この小説ではそれを導く役割を果たせてはいない。

 

この小説が芥川賞を取ったとき、サリンジャーライ麦畑)と対比する評判が多かった。けれど、社会が確信を失い、大人が子供を導けない世の中では、ホールデン・コールフィールドだって、べつの形で途方に暮れるかもしれない。なにに怒ればいいのかさえ難しい。

 

作者はあとがきで、「信じられる大人も信じられない大人もいる」みたいなことを書いている。作中の主人公にも、そんな大人がいるといいと思う。

 

 

「ルポ貧困大国アメリカ」 堤 未果

 

 

ニュースなどでアメリカ経済は意外に好調だと聞く。利上げしても景気が減速しないほどの底堅さだと。一方で国内は分断され、非常にぎすぎすしていると言う人もいる。どちらが正しいのか、日本に住む僕らにはなかなかわからない。

 

たぶんどちらも正しいのだと思う。アメリカが標榜する新自由主義は、国民に過剰な競争を強いて格差を拡大させる。貧困の外部化は、かつて貧困国に向かっていた。それがフロンティアの消滅とともに(中国の富裕化など)、今では国内での層分化による経済的弱者の創造で達成される。

 

本書はリーマンショック前に書かれたものでかなり古い。けれど、当時の競争至上主義の空気のなかで、どのように貧困ビジネスが形成され、貧困自体が固定化されていったかは、今でもあまり変わらないだろうと思う。

 

たとえば、当時の時点で、サブプライムローン貧困ビジネスとして書かれている。金融機関が、そもそも銀行口座さえ持たない移民層の個人情報を持ち、土地の値上がりを前提に高率の住宅ローンを組ませる。それはいつか破綻するのが当然だが、目前の利益を最大化する競争市場主義のもとでは看過される。「格差構造を糧とするマーケット」なのだ。

 

貧困層向けの無料給食制度では、経費節減の名のもとにジャンクフード業界が介入し、子供の肥満の原因になっている。ジャンクフード業界は貧困層をターゲットに、その嗜好に合わせたマーケティングをしており、彼らに健康的な生活を送らせないインセンティブが働いている。

 

ほかにも、災害予防プログラムや学校の教育システムに、不適当な競争が導入された結果の事例が紹介されている。本来競争を導入してはいけない、命や生活に関わる領域で競争が行われる。その結果が社会のぎすぎすした雰囲気なのだろう。

 

個別の富裕層がより金持ちになるのには、行き渡った競争がたぶんいい。けれど、社会全体の失敗は総合的には富裕層にも不合理で、本来は国が格差是正などでそれに介入するはずなのだけど、ソ連の失敗以降そのまま来てしまった感がある。

 

資本論では、我々労働者は、利益の分配を受ける対象ではなく、最低限の生活にかかる費用分を代価に労働力を売るだけの存在とされている。貧困層を対象にしたデフレビジネスは、その代価をますます低廉にし、資本家以外の貧困を構造的に拡大させることになる。

 

そんなのは嫌だなと思う。そういう意見が様々なところから出てきていることには希望がある。

 

ただ、何年か前に「ノマドランド」という映画が話題になった。ああいう強い生き方への憧れのようなものもなくはない。主人公たちは全員老齢で、美しくもないのに、なぜかかっこよくさえあった。社会の構造が簡単にはかわらないのであれば、せめて僕たちは助け合って生きていければと思う。

「歴史人口学で見た日本」 速水 融

 

 

 

昔のことは意外にわからない。何かの意図があって建てられたはずの設備の用途が、数十年のあいだにわからなくなっていたりする。それを作った役所は存続しているのに、資料が散逸してしまうらしい。ましてろくに資料なんて作らなかった時代のほうが長い。統計資料など、その概念さえ最近のものだ。

 

江戸時代の人口が3千万人くらいで停滞していたという話をたまに聞く。手元の日本史の参考書によると、「飢饉の続発など、農業経営が安定しなかったことで、農民の生活には余裕がなく、江戸時代の人口は停滞した」とある。

 

こういうことは誰が調べるのだろうとたまに思う。誰かが季節ごとの自動販売機の最適な補充のペースを考える。一方で、江戸時代の人口がどうだったか、停滞していたのであればその原因は何だったのかを考える。不思議な話だと思う。僕はどちらも考えたことがなかった。

 

本書は歴史人口学という学問で、江戸時代を中心に日本の人口の推移を分析している。分析には「宗門改帳」が使われている。キリシタンではないことを証明するために、全人口を対象に継続的に作られたものなので、人口の変化や移動を知ることができるらしい。

 

滅多に残っていない100年分連続した宗門改帳から、一人ひとりの誕生や死亡、移動をプロットしていく。そのなかで特徴的な要素が抜き出される。例えば、以下のような内容だった。

 

・江戸時代の全体人口は増えていない

・ただし、農村部では出生数は死亡数より明らかに多い

・農村部の余剰人口は都市部に移り、多くがそこで死亡したり、未婚のままになる

・また、出稼ぎ者が農村部に戻っても、大体が子供ができやすい時期を過ぎている

・結果的に人口は停滞することになる

・出稼ぎに行く貧農層は頻繁に絶家し、その穴を豊農層の二男などが埋める

・ほか、江戸時代のなかで核家族化が進む時期がある

・九州のほうでは、相当数の離婚や婚外子が確認される

 

最後の2つは、これに行動傾向の観点を加えるとエマニュエル・トッドみたいになる。実際、トッドは速水融のことに頻繁に触れている。

 

家の近くの、見慣れない形の道祖伸などを見ると、誰がどういう気持ちで作ったのだろうと思う。脇の年号で見ても数百年前のものだったりする。当時のどの辺りに住んでいた人が、どういう気持ちで作ったのか、今はわからない。今後もわからないのだと思う。

 

けれど、一方で、宗門改帳から江戸時代の農村部の人口動態を調べている人もいる。結構な数の人が産まれ、移動し、死んでいく。どういう気持ちで生きていたのかと思うと、それは学問ではないのだろうけど、読者としてであればとてもおもしろい。

「首里の馬」 高山 羽根子

 

≪あらすじ≫

主人公(未名子)はかつて不登校で、近所の民俗博物館に入り浸っていた。大人になってからはその博物館で、老婆が趣味のように収集した、沖縄の習俗のインデックス整理を手伝っている。仕事として行っているわけではない。しかし知識は系統立っていなければならない。

 

未名子はほかにクイズを出題する仕事を持っている。インターネット上で、世界中の人を相手に行われる。そこでの会話をもとに、未名子は彼らの背景を推測する。彼らは政治的な追放者や人質であったりするようだ。

 

彼らは複雑なクイズに正解する広範な知識を持ち、未名子にさまざまな知識を与えるが、それ以外の社会的つながりをおそらく持たない。知識とは、現在あるものを将来に受け渡すためのものであることが示唆される。

 

ある日、未名子のもとに、在来馬が迷い込んでくる。馬の世話をするうちに、未名子自身が馬にウェブカメラをつけて、島の現在を記録する決意をしていく。

 

≪感想≫

現在の記録が将来の役に立ち得るということは、現在の状況が一変する可能性があるということにもなる。平時には、作中で常に起きている台風であるが、歴史的には沖縄戦である。「鉄の暴風」と呼ばれたそれは、首里の周辺を地形さえ変えるほどに破壊しつくした。

 

未名子は、現在を記録することにこそ意味があると考える。その記録の真偽や価値を云々するのは、将来の然るべき人間の役割であるとされる。作中のクイズの相手は対照的に、社会の部外者であり、その広範な知識はクイズ以外のどこにも行くところがない。

 

未名子は博物館の知識を彼らに分有する。それは知識が知識として純粋に成り立つことのイメージなのかもしれない。習俗を伝えるというと民族的アイデンティティを思い浮かべるが、彼らはそもそもが局外者で民族性は曖昧だ。それは沖縄と言う、言語的共通を民族の定義としても、日本国内で曖昧さを持つ土地での、習俗の伝承の問題につながる。

 

文体は平易なのだけど、読み取るのが難しい小説のように感じた。人によって得る感想は違うように思う。

「瓦礫の死角」 西村 賢太

 

≪あらすじ≫

主人公(貫太)は高校中退の落伍者。家を飛び出しはしたものの、住み込みバイトの先で悪態をつき追い出されて、母子家庭の家に戻ってくる。母親は家庭内暴力を振るう貫太の帰宅を喜ばず、いつ出ていくのかばかり気にする。

 

働こうともせず、母親を買い物などで使役し、抗弁すると暴言を吐くなど、貫太の態度は最悪に見える。しかし、服役中の父親が出てくるという重苦しい影の元で、2人の関係には少しの改善の兆しが見られる。

 

母親はかつて強引に離婚した父親の報復を恐れ、貫太は母親に頼られる感覚にいくらかの満足を覚える。けれど、性暴力による服役を終える、かつての暴君である父親のイメージは圧倒的である。結局、貫太は自分に咎が及ぶことを恐れ、母親を捨てて逃げてしまう。

 

≪感想≫

西村賢太は、延々と北町貫太を主人公にする話を書いていて、これらは私小説に属するらしい。つまり、西村賢太の過去を下敷きにしたものということだろう。

 

同じ話を延々と描いているように見えて、この小説の次の時期がこの小説というように、時系列に並べることができるようだ。

 

私小説はいつか題材に不足しそうに思えるが、過去が重厚であればこそ書き続けるのが可能ということだろう。作者は昨年死んでしまったので、ついに西村賢太のすべてが書かれることはなかったさえ言える。

 

貫太は、卑屈でコンプレックスの固まりのような存在だ。あらすじだけ読むと面白そうな小説には見えないかもしれない。けれど、それは僕の叙述が拙いからであって、西村賢太が書くと、とても面白い小説になる。どういうことなのだろうか。すごい人がいたものだと思う。